代表挨拶

130期幹事長より

 私が弁論界の門戸を叩いてから、もう2年が経ちました。感慨深いですが、この世界ではまだまだ若造です。

 弁論の世界とは奥深いもので、いつまでもその全容を掴み切るには至りません。古代はギリシャから発生した弁論術は、裁判、政治、あらゆる論争の場面で用いられ、改良され、その技巧を競われることで発展してきました。


 これらの技術は現代でも、哲学や法学の世界を始めとして、あらゆる場面で使われています。相手を言い負かす技術だと誤解されることもありますが、本来弁論とは対話を試みる行為であり、また議論になっている分野を発展させることを目論んでする営みのことを言います。各々が信じる「正しさ」を、より自分の主張に近く、それでいて説得力のある言葉で打ち出し、ぶつけ合うことが必然的に求められるわけですから、まずは「言葉の力」で相手を出し抜こうという気概が必要になります。この場合の弁論は、さながら言葉の格闘技だと形容されます。

 弁論の役割はそれだけではありません。弱者の側に立ち、あるいは理不尽なものに立ち向かい、世の中に対して声を挙げる。ひとりでは成し得ないことでも、言葉でもって仲間を集めて、大きなムーブメントにしていく。そのために言葉が書かれ、伝えられ、世界はしばしば「言葉の力」で塗り替えられてきました。そしてこれからも、誰かの言葉は誰かを助け、救い続けることでしょう。しかしその差し伸べるための「手」を、人はしばしば持たずに生活しようとします。現代ではSNSの普及に伴って、他人の注目を集めたいばかりに先鋭的な言葉に走る人が増えています。誰かを救いたい信念があって放たれた言葉が他の誰かを傷つける場面が、Twitterを中心に多く観測されるようになりました。言葉の発信と受信が容易になったことで、言葉の細部に気を遣わず、無邪気なやり取りに終始するようになってしまった現代は、むしろ言葉のモラルが退行していると言えるのかもしれません。

 恐らく多くの人にとって、言葉の持つ力、またはその恐ろしさに気付くのは、社会に出て様々な理不尽を目にしたり、あるいは理不尽の当事者になったりした時だと思います。人は主体的になって何かをしようとする時、しばしば自分の持っている武器の少なさに愕然とします。そういう人間がせいぜい持てる手段が、誰かに共感してもらう、あるいは共感してもらえるように訴えることでしょう。そして共感を集めるための技術は、一朝一夕で得られるものではありません。学ぶことはもちろん、実践を繰り返す中で身につけなければいけないものです。


 当部は國學院大學第一の言論機関として、日露戦争から大東亜戦争、戦後復興期や高度経済成長時代、そして現在に至るまで一貫して、自分の意見を持ち、自分の言葉で綴り、自分の声で伝える訓練と研究を続けてきました。

 言葉に力が宿るのは、社会はこうでなければならないという理想があり、理想を叶えたいという信念があり、信念を表出させ社会にぶつける情熱がある時です。ひとりで得るには困難のある力です。それを大學公認部会として、部員、大學、文化団体連合会、そして時には他大学の弁論部会員の方や辯論部OBOGの皆さまの力をお借りして、存分に研鑽を図れるというのが、当部最大の魅力です。

 ここでは大學という環境で多くの言葉に触れ、あるいは渋谷の街に繰り出して様々な文化に触れ、そして時には大会に出て自分の言葉を見つめ直すことで、数年をかけてじっくりと自分の言葉を磨いていくことができます。その貴重な言葉の一滴がどれだけ人生を豊かにしてくれるかは、先輩方のご活躍を伺っているだけでも十分に感じることができるでしょう。


 言葉とは、一体何でしょう。

 時に人を助け、時に人を傷つける。そして言葉にどんな目に遭わされようがそれでもなお、私たちは言葉と共に生きていかなければなりません。

 言葉とどう向き合い、どう付き合って生きていくのか。その見通しを得るためにも、私はもうしばらく、ここにいたいと思います。


Profile ──
國學院大學法学部法律専門職専攻3年。第44回法政大学春秋杯争奪全日本学生雄弁大会出場。第59回中央大学花井卓蔵杯争奪全日本雄弁大会第三席。第39回東京大学総長杯争奪全国学生弁論大会本戦出場。第44回大隈杯争奪雄弁大会優勝。

東大総長杯出場時写真

第39回東京大学総長杯争奪全国学生弁論大会本戦出場時